玄関が開く音が家に響く。途端に、亜麻色の髪をした少女が勢い良く玄関まで走り出てきた。
「お帰りなさいです、おじいさま。わふっ、おおきなカバンですねぇ。そー、びっぐばっぐ!です」
玄関に入ってきたのは、初老の男であった。少女の髪と同じ色の髭をたくわえた、穏やかそうな顔立ちをしている。
「ただいま、クドリャフカ。これかい?気になるだろうが、あんまり触っちゃ駄目だよ」
男は、その手に抱えていた旅行カバンをひょいと掲げた。表面の塗装はほとんどが剥げ落ち、無数の傷があるそのカバンは、お世辞にもきれいとも立派ともいえないものであった。そんな薄汚いカバンを、しかし男は大事そうに居間まで運び、ゆっくりと机の上に置いた。
「おじいさま、何が入ってるんですか?」
少女は、青い目を見開いてカバンを見つめている。男は、カバンの蓋に手をかけた。
「見るのはいいが、触っちゃ駄目だよ。これはワシのではなくて、そしてとても大事な物なはずだから」
開ける前に確認するように、男は諭す口調で言った。少女は、カバンを見つめたままコクコクと頷いた。中身が気になってしょうがない、という様子で、そんな姿を、少し心配そうに見つめながら、男はカバンの蓋を開けた。
「わふっ、クマさんですっ、おっきいクマさんです〜!」
少女は、無意味に手をばたばたと振って驚きを表す。カバンの中に入っていたのは、少女より一回り小さいくらいの大きさの熊のヌイグルミだった。多少無理やりではあったが、それでも丁寧にカバンに詰められている。
「わふー、かわいいです。おじいさまのお仕事のものですか?」
少女は、抱きしめたくてたまらないというようにそわそわしながら、男の顔を見上げた。
「いや、わしの仕事とはまったく関係がない。そして、仕事なんかよりとても尊い物だよ」
そう言うと、男はヌイグルミの影に隠れていた紙をそっと抜き出した。
「トウトイ、ですか?わふ〜……知らない言葉です」
少女は、首をかしげてそう呟いた。
「クドリャフカにはまだ少し難しかったかな。尊いというのは……そうだな、とても大切な、preciousな物、といえばいいかな」
「ぷれーしゃす?お仕事よりもプレシャスなのですか、このクマさんが?」
少女は、わけがわからないというようにさらに首を傾けた。
「これが読めるかな?クドリャフカにもわかる程度の英語だと思うが……」
男は、三枚あるうちの一枚をを少女に手渡した。
「わふ!たくさん文字があります!えっと、これは……いんでぃー、ですかね?こっちは……いたりー、ふれんち、イングリッシュはこれですね。えっと、いふ、ゆーふぁいんど、でぃすすーつけーす、ぷりーずていくいっととぅー、あうあーどうたー!どうたー……どうたー?」
少女は、外見とは裏腹なたどたどしい英語で、紙に書かれている文を読み上げた。
「裏を見てごらん」
少女は、素直に紙を裏返す。少女が読んだ側には、たくさんの国の文字が書かれていたが、裏側には、日本語が一文だけ綴られていた。
「わふ……このカバンをみつけたら、どうかムスメにとどけてください、ですか。そうでした、どうたーは娘でした。娘さんへの、お届け物ですか?なぜおじいさまがこれを?」
少女は、紙を男に返しながらそう尋ねた。
「イギリスの海岸に流れ着いていたらしい。わしも事情は良くわからないのだがね、何か不幸にでもあったのだろう。カバンは最初から今みたいにボロボロだったらしい。親切な人に拾われたのが良かったんだろう、何とか持ち主の願いをかなえようと人から人へと渡り歩いてきたらしい。わしが日本に詳しいということで、コリアの友人が送ってきたんだよ」
男は、少女に渡してない方の紙をじっと見つめながら、ゆっくりと語った。
「だからこんなにたくさんの言葉が書いてあるんですね。めにーめにーわーず、めにめにーかんとりー!そういえば、そっちには何が書いてあるんですか?」
かんとりー!と手を突き上げ、少女は男の見つめている紙を指差。男は、何も言わずに少女に紙を見せた。
「『ことみへ』。わふ?娘さんの名前ですかね?『ことみへ、世界はうつくしい』……」
悲しみと涙に満ちてさえ
瞳を開きなさい
やりたいことをしなさい
なりたいものになりなさい
友達を見つけなさい
焦らずにゆっくりと大人になりなさい
おみやげもの屋さんで見つけたくまさんです
たくさんたくさん探したけど、
この子がいちばん大きかったの
時間がなくて、空港からは送れなかったから
「『かわいいことみ、おたんじょうびおめでとう』ですか。お誕生日のお土産だったのですね。はぴーばーすでー、です」
少女は、改めてヌイグルミを見つめた。さっきとは違い、抱きしめようとは思ってないようで、ただじっと見つめている。
「それを読んで、どんな感じがしたかい、クドリャフカ」
男が、少女から受け取った手紙を元に戻しながらそう尋ねた。
「そうですね、わふ……最初のところは難しくてよくわからないですが、なんだか……そう、あったかい感じがします。おじいさまがお仕事よりぷれしゃすだといったのが、なんとなくわかります」
真剣なまなざしで精一杯そう語った少女の頭を、男は優しく撫でた。
「それがわかるならクドリャフカは偉い子だ。そんな偉いクドリャフカに、クマさんではないがお土産だ」
そういって男が男自身のカバンから取り出したのは、一通の封筒だった。
「わふ!おかあさまからですね!わふ〜!」
手紙を受け取って、少女は満面の笑みでくるくると舞った。回ることで、少女自身の喜びを表すかのように。数十秒も回ったところで、少女はふとカバンに目を向け、舞をとめた。
「あのくまさんと手紙も、お父さんお母さんから娘さんへのものなのですね。きっと、あれを受け取ったら、娘さん……ことみさんも喜ぶと思います」
「そうだろうね。今のクドリャフカと、どっちがうれしいと思うかい?」
男が、カバンの蓋を閉めながら少女に問いかける。
「わふ……バースデープレゼントなのですから、ことみさんもきっとうれしいのです。あ、でも、クドもいっぱいいっぱいうれしいですし……わふぅ、比べられないですよぅ」
少女は、困ったように頭を垂れた。
「すまないすまない、意地悪な質問だったな」
そんな少女の頭を、男はぽんぽんと撫でた。
「わふー。このカバン、どうするですか?おじいさまが日本に持って行くですか?」
頭を撫でられた少女は、気持ちよさそうに目を細める。
「いや、わしはしばらく日本に行く用事がないし、残念ながら日本が好きなのだが知り合いはおらん。かわりに、中国におる仕事仲間が日本によく行くそうなので、その人に託すつもりだよ」
男はそういうと、多くの文字が書いてあるほうの紙にペンを走らせた。それまでカバンに関わってきた人々と、そしてカバンの元の持ち主の想いを、しっかりと受け、そして次へと託すように。
「ことみさんに、届くといいですね」
少女も、男に教えてもらいながら、文の一部を書き上げた。幼いながらに、このカバンの持ち主がどうなったかをわかっているのだろう。その瞳は少し潤んでいた。
あとがき
これを書くに当たって、ことみへの両親からの手紙を改めて読みました。
涙が出ました。
おそらく、数あるkeyのシナリオの中でも海豚が泣いたレヴェル上位に入るストーリーです。
海豚の文章力では、その雰囲気を出すことあたわずでしたが。